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「書の美」

先の記事で西田幾多郎のことばがでてきた(「英習字研究」巻頭言で吉田一郎氏が引用)ので、6年前に西田幾多郎哲学記念館にいったときの図録をひっぱりだしてみました。

西田幾多郎は、たくさん書をのこしていて、記念館にも彼の書のコーナーがあります。

引用されていた箇所もふくむ「書の美」という文章、今改めて読むと、ぶるぶる共感するものでした。一部書きだそうかと思いましたが、「一部」にできなかったので、全部うつしてみます。

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西洋では書というものは美術の中へは入らないが、東洋では書は美術の大なる領分を占めているということができる。

書は如何なる種類の美術であろうか。美は主客の合一にあるのはいうまでもないが、芸術には客観的対象を写すことが主となっているものと、主観的感情の発現ということが主となっているものとがある。絵画とか彫刻とかいうものは前者に属し、音楽という如きものは後者に属するのである。建築の如きも感情の発現とはいい難いが、それが何らかの対象を写すというのでなく、一種のリズムを現すという点において、むしろ後者に属すると考うべきでもあろう。

右の如く芸術を分類して見ると、書というものも何らの対照を模するというのではなく、全く自己の心持を表現するものとして、音楽や建築と同じく、全くリズムの美をあらわすものということができるであろう。その静的な形のリズムという点においては建築に似ているが、建築の如く実用に捉われたものでなく、全く自由なる生命のリズムの発現である。そういう点においては音楽に似ている。つまり建築と音楽との中間に位するとでも考うべきであろうか。「凝結せる音楽」とでもいうべきであろう。

ショーペンハウエルは音楽は物自体たる意志そのものを表現するものだから、最も深い芸術だといった。リズムそのものほど、我々の自己そのものを表すものはない。リズムは我々の生命の本質だといってよい。音楽と書とは絵画や彫刻の如く対象に捉われることなく、直にリズムそのものを表現するものとして、我々の自己に最も直接した芸術といってよい。しかもかかるリズムを静的に見る所に、芸術として書の特殊的な点があるのである。

それで書の価値というものは、いわゆる技巧というよりも、多分にその人によるものでないかと思う。無論、如何なる芸術もその芸術家自身の人格の発現でないものはなかろう。しかし絵画や彫刻の如きものはいうまでもなく、音楽の如きものであっても、客観的制約が多いと思う。しかるに書に至っては、それが極めて少なく、筋肉感覚を通して、簡単なる線とか点とかより成る字形によって、自由に自己の生命の躍動を表現するのである。

『徳雲』第三号、昭和五年五月

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線、点、文字をかく、のは、自分の手で書くのが楽しいのはとっても自然なことなのだと思います。


さて、「西田幾多郎」という人についてほとんど何も知らずに記念館にいったのですが、帰りには図録を買うくらいには興味をもったようです(ほっといてありましたが・・・)

展示をみて何が一番心に残ったかというと、彼の名刺。

名前のみ。


かっこいい、と思ったのでした。


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