踊る

この何年か、直接紙に書く、以外のこともやってみました。
シルクで印刷してみたり、そのための原稿をつくったり、銅版画にしてみたり、そのために反転して写したり、大きな板に書いてみたり、そのためにトレースしてみたり。
その過程、そしてできあがったものからいまさらながら感じたことは、カリグラフィーは動き、踊りそのものだな、ということ。
続けて踊るような文字を書く、ということではなく、基本の文字であってもそれは動きの連続。たとえひとつまえに書いた線と紙の上ではつながっていなくても、スペースの空き方もどう線を書くかもすでに書いた線とつながっている。
そしてどんなに練習しても、毎回どこかちがう。おなじ振りつけでも、そのとき、そのひとによってちがう。ひとつ前の振りに反応して次の振りはかわる。
そこがいちばんの魅力で、私にとって、それを感じるには直接書いたものと比べられるものはないなあ、と。
シルクで文字の形は同じものを刷ることができて、それはそれでとてもヨロコビなのですが、たくさんの文字も一瞬の一度の刷りであらわれてきているので、ストロークの積み重ねの原本とは感じるものがちがう。
そして、たとえばひととおり書いてみて、ひとつだけ気になるところがあるとする。印刷するための原稿なら、そこだけなおすことも可能なんだけど、そこだけやはりちがう・・・。つながりがぎこちないように感じてしまうのです。(もちろん、修正が下手っぴなのもあるし、印刷になってしまうと気にならないので、そのほうがよいこともある。)結局、気になるところがあってもトータルで見て気に入ったものを使ったり、最低でも一文単位でなおしたりするほうがしっくりきたりする。大切なのは流れ。
そして、アルファベットの歴史でも、文字の形が変化したのは、どんどん書いていく運動の結果。
自分の好きなのは、その運動そのもの。
そんなことをいまさらながら思っていた時に手に取った本。
雑誌『真夜中』の「音楽と言葉とエトセトラ」☆
はっきりいって、全部まるごと引用したい文章なのだけれど一部だけ。
・・・二十万年前、ホモ・サピエンス誕生の時以来の、われらの言葉の材質とは何か。音である。意味である。五千年前に文字が案出されて、新たな材質が加わった。カリグラフィ、すなわち「イメージ」である。(中略)「g」という文字のこの軽くうねる流れと、付着するにがい音とのゆえない対比はどうだ。奇妙なことだ。言葉の内部には、音があり、そしてイメージがある。そして意味という謎めいたものすら、そこに折り畳まれている。
・・・中世ラテン語写本を目にすれば、いかなブロック体で書かれていようとも、仄かにく黝(くす)む文字の連続のなかに「ひと文字から次の文字へ」という辷(すべ)らかな運動性がまざまざ感じとれる。精密に、機械的に並べられた黒い真珠のような筆跡にひそやかに停留しおのれを捩らす「何か」の流れが、滾々(こんこん)と沸き立つ言の葉の水脈が。
・・・一糸まとわぬ書くことの、書き順の、順を追ったとめどない流れ。それは、一つのダンスではないのか。それ自体が一つのダンスなのでは。書くことは舞踏の挙措の流れを繰り出すことであり、読むことはその振り付けを身もろともになぞることなのだ。ブランショを引くまでもなく、書き読む者は共に踊る。そうだ、文章のひと連なりから、われわれは声を聞きとる。メロディを、リズムを、歌を。
もう震えるしかない文章でした。ちょうどそのときにポンテの作品展があったのですが、ブック用に考えていた作品を即変更。「踊り」をテーマにしたものに変えました。そうするしかないでしょう、と。単純。
なぜかそのあとすぐに彼の講演があることもわかって、もちろん聞きに。そのときはこちらも個人的に興味ありありな「翻訳」の話でした。
そして、そのときに買った『この日々を歌い交わす』☆
踊ること、書くこと、まだまだ自分のなかで深まっていない。
なんだか自分の今までやっていることとちがう気がして少し腰がひけるけど、深まっていけば、同じところにいくのかもしれない。
Dancing is just discovery, discovery, discovery. As is all art. — Martha Graham
そういうこと。
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